裏千家初釜でいただいた
寿扇の意味を調べるうちに得た外の知識を書き留めておく。
木鶏モッケイ、ボッケイ
『荘子』達生
紀省子が王のために闘鶏を養っていた。
十日たって、「もういいか」とたずねる。
「まだでございます。今は昂然と気おっています」という。
十日たってまたたずねた。「まだでございます。まだ(他の鶏の)響や影にも立ち向かいます」
十日たってまたたずねた。「まだでございます。まだにらみつけていきりたちます」
十日たってまたたずねた。「どうやらでございますよ。ほかの鶏が鳴くのを聞いても、べつに変わらなくなりました。離れたところからみると、木に彫刻した鶏のようになりました。その徳が完全になりました。ほかの鶏もしいて立ち向かおうとするものはなく、かえってにげだしてしまいます」
(「中国古典文学大系」より) -木ならぬ種ものの鶏-
人の道でも、徳が充実していれば、戦うとか、勝つとか負けるとか一切の計らいもない。
無為自然の心の状態で、相手の敵対心を失わせ戦わずして勝つ、というより呑んでしまう。
無心の働き、何事にも動ぜず、常に平常心でいられること。
木鶏、子夜シヤに啼く (補足)
『禪林會元』
木鶏が、子の刻(午前零時)に人知れず鳴く。
無心のはたらきを象徴的に木鶏に例え、人知れぬはたらき、分からぬうちにということ。
-朝日焼「酉」 14代豊斎造-
双葉山関の木鶏たらん
荘子の木鶏は、双葉山関が「木鶏たらん」と修行した逸話と共に語られることが多い。
私は、双葉山の名前くらいは知っていても、この逸話を聞くことはなかったが、一世代前の方には常識なのかも知れない。
双葉山関に木鶏を示唆したのは、安岡正篤氏だそうだ。
以前、知人に氏の著書を勧めらながら読んでいないので、今度、図書館で借りてみよう。
(つゞく 「
その2 芻狗」)
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