先日、菊池寛実記念 智美術館に行った。
樂 吉左衛門 1999年秋-2005年春 創作
樂さんの1990年「
天問」も拝見しているが、その時はあまりの斬新さに衝撃を受けたが、今回は慣れたというべきか。
哀しいかな、茶をしていると、
茶碗として見てしまう。
茶碗なのだから、それでいいのか。
ご自身は、実際の喫茶道具として製作しておられるのか。
オブジェの形のひとつの選択として、茶碗があるのか。
暖簾に「樂焼 御ちゃわん屋」とある、お家の使命か。
懐石の鉢を見れば今の季節どんな料理を盛ろうかと想像し、徳利と石盃を見ると酒を注ぐ景が浮かんで、舌なめずりする。
茶碗を見ると、そこに茶の深い緑を見るし、唇を寄せる瞬間を思う。
この展覧会の茶碗には、それを期待できない。
しかし、抽象絵画、これを陶板として見れば、その色、光、質感、指跡、箆目など、断然
魅力的である。
茶の湯道具の
既成概念をはずして見るよう努めた。
腰の丸い茶碗の一連は、官能的だと思った。
楽茶碗に、てづくねのぬくもりを感じる事はあっても、官能を想うは初めてである。
もし、恋人の手によって形づくられたものであったら、この茶碗に、その人自身を投影させるかも知れない。
縦に箆目のある一連には、あまりにストイックにして、厳しいという印象を持った。
自然や世間そのものであり、また、それに立ち向かう勇ましい姿、傷つき打ちのめされる痛み、戦乱の後の空虚な静けさ、拒絶などが渾然一体となって、そこにある。
どちらも手元に置いて
愛玩するに、私は弱すぎる。
(つゞく 「
菊池寛実記念 智美術館」)
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