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2012年 11月 24日
(つゞき 「玄猪4 幕府」)
宮中へ、10月亥の日に亥の子餅・玄猪・つくゝゝ以外に、丹波国能勢より「能勢餅」が献上されたと、『禁中年中行事』『後水尾院當時年中行事1625頃』『御湯殿の上の日記』『類柑子1707』『故實拾要1730頃』『禁中近代年中行事』などに載る。 (摂津国能勢郡が丹波国とあるのは、摂津の北端で丹波との境目にあたり、また能勢餅が丹波国龜山の驛から公役の人足では運ばれたことから、誤認されたのだろうか。) 『貞丈雜記 六 飮食』(伊勢貞丈著、1843)には、1000年ほど前から毎年善法寺氏から禁裏へ献上される能勢餅を、摂津国能勢郡木代村と切畑村(現大阪府豊能郡豊能町)で製すのは、古え木代村が善法律寺の寺領だった故で、今でも絶えずに献上、とある。 また、室町将軍家へも同様献上されている(室町幕府10代義稙代『殿中申次記』、12代義晴代『年中恒例記広橋兼秀著、1544』、『貞丈雜記』)。 善法寺氏は石清水八幡宮の祠官で、善法寺通清の娘紀良子が3代義満の生母であることも興味深い。 その由来につき地元能勢では、応神天皇が、猪によって危難から免れたことから、吉例として十月亥の日に供御クゴとして「おいのこ」を献上させたと云う。 記紀に、誉田別命ホムタワケノミコト(後の応神天皇)は誕生後すぐに皇太子となり、それを嫉んだ異母兄の麛坂カゴサカ王と忍熊王オシクマが、神功皇后と皇太子の命を狙い、菟餓野トガノ(不祥、大阪市北区とも神戸市灘区とも)で戦の吉凶を占う祈狩ウケイガリの折、猪があらわれ麛坂王を咋カみ殺した、とある。 『日本書紀』神功皇后摂政元年(249)2月条に、 時麛坂王。忍熊王。共出二菟餓野一。而祈狩之曰。(祈狩。此云二于気比餓利一。) 若有レ成レ事。必獲二良獣一也。二王各居二仮庪一。赤猪忽出之登二仮庪(緑水庵註:サ ズキ、仮の床)一。咋二麛坂王一而殺焉。 『古事記』仲哀天皇にも、おおよそ同意が載る。 如此上幸之時、香坂(カゴサカ)王、忍熊王聞而、思將待取進出斗賀野(トガノ)。爲宇氣 比獵也。爾香坂王騰坐歴木(クヌギ)而、是大怒猪出堀其歴木。即咋食其香坂王。 地元能勢では、この祈狩の場所を菟餓野でなく能勢山中としている。 なお、石清水八幡宮の祭神が、誉田別命(応神天皇)、比咩大神ヒメオオカミ、息長帯姫命オキナガタラシヒメノミコト(神功皇后)であることも書き添えておく。 『改正月令博物筌 十月』(鳥飼洞斎著、1804)にも、応神天皇代より亥の日を祝い、御亥猪餅を奉るよう詔があったが、応神天皇以前は山猪を献上し、この餅の色が薄赤いのは豕の子の肉を表わすとある。 現在はないが、摂津国百済郡(平安末期には東成郡)猪飼野イカイノ(現在の大阪府東成区と生野区に跨る鶴橋から桃谷にかけて)という地名がある。 猪飼野の由来は、渡来人が大陸から猪(豚のこと)を持ち込み、朝廷に献上する猪を飼育していた猪飼部イカイベの住居地であったとされる。 『日本書紀』仁徳14年(326)条に、猪飼(猪甘)の名が載る。 冬十一月為橋於猪甘津(イカイノツ、猪飼・猪養)即號(ナヅケテ)其処曰小橋(オバシ)也 『日本書紀』崇峻5年(592)10月に、どこからか山猪が献上されている。 五年冬十月癸酉朔丙子、有獻山猪。天皇指猪詔曰、何時如斷此猪之頸、斷朕所 嫌之人。 おそらく、猪の献上は、飛鳥時代の仏教伝来により不殺生戒が普及し廃止、それに代わるものとして、猪肉に見立てた餅が生まれたのであろう。 能勢に関して、『改正月令博物筌』の応神天皇云々はあくまで伝承で、地理的にも大和・近江などの朝廷への献上は無理があり、上がっても平安遷都以降だろう。 さて、能勢餅の形状だが、「野瀬ノ折 丹波ノ野瀬ヨリ調進、(『禁中年中行事』)」や「筥に入て」(『後水尾院當時年中行事』)とあるように、箱に折り詰めされた餅である。 『攝津名所圖會 能勢』(1796-98刊、地誌)は、能勢郡木代村切畑村が調貢する能勢餅の製造が詳しい。 ・茹でた小豆と糯を混ぜて薄紅の餅を搗き、これは豕の肉を表す(『禁中近代年中行事 十 月』は半搗き、「なまづきあづきもち、米半分ほどはつぶにて有」)。 ・長さ六寸五分(20㎝弱)、幅四寸(12㎝)、深サ二寸(6㎝)の箱に入れる。 ・その上に小豆の煮汁(緑水庵註:少し柔らかい餡か?)を引き、切った栗を6個ほど並べる (緑水庵註:地元では栗は猪の骨と云う)。 ・その上を熊笹の葉を2枚で覆う(緑水庵註:地元では熊笹は猪の牙と云う)。 ・これを幾度か重ねる(『禁中近代年中行事』は「五ツかさね入」) ・(『禁中近代年中行事』に「御所の仕丁とりに行也、野瀬もちを二ツに切、あいかわらけに 入、三方にて御まへ出ル」とある。すなわち、10㎝×6㎝に切った餅を、直径12㎝の土 器三度入りと五度入りの間の大きさ に入れ、三方にのせる。) また、道喜さんの御菱葩オンヒシハナビラに試みの餅があるように、能勢餅も試みされた様子も見て取れる(ただし、7日は巳なので1日が上亥、疑問は残る)。 慶長三年(1598)十月七日、丹波の能勢こヽろみに、長橋(勾当内侍、天皇への伝奏を司る) より取り寄せ候て、十二合参る、(『御湯殿の上の日記』) ついでながら、宮中が東京に遷ってからは、道喜が替わって納めたそうである。 興味のある方のため、『貞丈雜記』『殿中申次記』『年中恒例記』『改正月令博物筌』『攝津名所圖會』『禁中近代年中行事』の原文を載せておく。 『後水尾院當時年中行事』は、「玄猪3 宮中(文献)」参照。 (つゞく 「玄猪6 民間」) (f Likeはフェイスブックに登録の方のみ反映) 両方のclick! ありがとう。 →
by ryokusuian
| 2012-11-24 15:31
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