
(つゞき 「
栗の粉餅2」)
駿河国の岩渕(東海道の吉原宿と蒲原
カンバラ宿の間宿
アイノシュク、現富士市岩淵)では「栗の粉餅」が名物であった。
砂糖以前、餅の甘味付けに身近な栗を用いるのは、
甘葛より簡単で、ごく自然なことであったろう(三内丸山遺跡でも知られる通り、5500年前から食べられていたくらいだ!)。
さて、「栗の粉餅」の由来は、餅の買えない孝行娘お糸が病気の父親音吉に丸めた
ご飯に栗の粉をまぶして食べさせる
と云う昔話の外、繰船甚左衛門が売っていた操船餅
(栗の粉
をかけた餅)を、殿さまが「栗の粉餅」と命名した話もある。
かつては一里塚周辺に栗の粉餅を売る茶屋が数軒あったが、大正時代には姿を消した。
なお、栗の粉餅を商い、娘時代に廃業したと云う古老(明治33年生)の談では、もとは栗の実から粉を作っていたかも知れないが、当時は黄な粉を使い、竹の皮に包み、一包四厘であった、とのこと。
それならば、当時(明治から大正)の「栗の粉餅」は「安倍川餅」と変わらないようである。
『改元紀行』大田南畝(号蜀山人)著、享和元年(1801)、大坂への旅の記録
三月朔日天気よし。沼津の宿を出れは(略)。岩渕の庄屋常磐屋というふものはもと
よりしれるものなれ。(略)このあたりの家々栗の子もちをひさく。
『駿国雜志』阿部正信編緝、1841-1843、駿河国の地誌(明治43年、吉見書店刊)
[栗の粉餅] 庵原
(緑水庵註:イハラ)郡岩淵村にあり。名産とす。其餅は白く圓也。
栗を
粉にして、其上にかけたり。味甚甘美也。
[栗の粉餅] 庵原郡岩淵村、是を賣る。其製湯櫃
(緑水庵註:飯切のような櫃か?)形白餅
にして、上に
栗の黄粉をかく甚味よし。其大さ安倍川
五文採餅に同じ。
『富士川町誌』大正6年(1917)
名物栗ノ子餅ハ駿国雜志ニモ記サレタル如ク世間ノ人ノ多クハ栗ノ粉ヲカケタル餅と
思ハレドモ、
大豆ノ黄粉ヲカケタルナリ。初メハ
操船餅トイヒシヲ何時ノ頃ヨリカ栗ノ
粉餅ト呼ビナセリトゾ。
参考文献 『広報 ふじかわ No.384』富士川町総務課発行
(つゞく 「
栗の粉餅4」、 参考 「
安倍川餅1」)
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