(つゞき 「
その1」「
その3」)
戻って利休はと云えば、山上宗二(1544-90)が『山上宗二記』で、年齢によって修養段階をしめしている。
15歳から30歳までは師に任せる「守」、30歳から40歳までは十のうち五までは自分流を打ち出し、40歳から50歳までは上手すなわち「破」、50歳から60歳までは名人である師を手本にする、70歳で名人すなわち「離」。
子日、吾十在
(マヽ)五而志学云々ゝゝ
此語ヲ紹鷗・道陳・宗易之蜜傳也、十五ヨリ三十マテ萬事ヲ師ニマカスル也、三
十ヨリ四十一マテハ我分別ヲ出ス、習骨法、普法度、數奇雜談ハ心次第ナリ、
但、十ノモノ五我ヲ出スヘシ、四十ヨリ五十マテ十年ノ間ハ師ト西ヲ東ト違テスル
也、其内我流ヲ出シテ
上手ノ名ヲトル也、茶湯ヲワカクスル也、又、五十ヨリ六十
マテ十年ノ間ハ師ノコトク一器ノ水一器二移スヤウニスル也、名人ノ所作ヲ萬手
本ニスル也、七十而テ宗易ノ今ノ茶湯ノ風體、
名人ノ外ハ無用也、六十八歳二
相當ノ儀也、紹鷗ハ五十四ニテ死去、此外、條々口傳在リ、
(『茶道古典全集6 山上宗二記』淡交社)
以上、『角川茶道大辞典』の「守破離」になぞって文献羅列に終始しただけで、それ以上のことは分からなかった。
まず如心斎(1705-1751)頃に、利休頃よりすでにあった茶の湯の修養段階の観念を、兵法の守破離という言葉を借りて表現、それを不白が文字に立てた。
幕末には千葉周作の例もあるように諸芸で広く意識されていたのだろう、玄々斎が『喫茶敵門瓦子』に採録し、また利休の教えとして道歌に追加。
近代、その歌が茶扇に印刷されるなどして、茶湯において「守破離」の教えは広く流布した。(了)
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